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梶原和義のBlogです。
私の文明評論です。

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原罪
現存在の人間の実体はリビング(生かされているそのこと)であって、リビングが永遠です。リビングという言葉の実体が永遠の命を経験することをさしているのです。
私たちは、現在、衣食住において、この世が造られるまでの命を経験しているのです。砂糖が甘いのも、塩が幸いのも、皆永遠の命の現われです。空が青いのも、木の葉が青いのも、海が青いのも、永遠の命です。生きていること自体が、すべて、永遠の命を体験しているのです。
ところが自分がいると考えている。だから死ななければならないのです。死ぬのは当たり前になってしまうのです。これは愚かなことです。本当に愚かなことです。
そこで、般若心経の五蘊皆空から入るのが、細い道へ入るための正門です。その他に、神の国に入る門があるのです。細い道へ入る門と、神の国へ入る門と、二つの門があるのです。細い道へ入る門が般若心経で、その道へ入ってしばらく通っていくと、神の国へ入る門に到着することになるのです。
空観とは何か。これは人生観でもないし、世界観でもない。人生そのものを否定するのですから、人生観ではありません。世界も否定していますから、世界観でもないのです。人生観、世界観から解脱する門が空です。その門を入っても何もないのです。
仏教的には、如来の国へ行くと、仏国浄土へ行くと言いますが、それを信じると、又もとの人生観に逆戻りするのです。
神の名によって洗礼を受けて水から生まれると、良き良心が与えられます。良き良心を崇めて生活することが、霊に従いて歩むことになるのです。水から生まれることと、霊から生まれることがあるのです。
霊から生まれるということは、聖書になじみのない人には何のことか分かりませんが、人間は現世に生まれて、人間社会の伝統、習慣、常識で生きています。これは肉の思いで生きているのです。
霊から生まれるというのは、神の御霊によって新しく生まれることです。神の御霊は森羅万象を生かしている大自然のエネルギーで、これと一つになることを霊から生まれるというのです。
良き良心は洗礼を受けた人でないと与えられません。キリスト教であっても、父と子と聖書の名によってバブテスマを受けると、良き良心が与えられるのです。だからキリスト教会の人々は、私たちの信仰は間違ってはいないと思うのです。彼らは良き良心は与えられますが、霊に従いて歩むことを知らないのです。良き良心は何かと言っても分からないのです。洗礼を受けた時に、良き良心を与えられるのです。洗礼を受けた時の気持ちを深くつっこんでいくと、永遠の命に到るのです。
人間は原罪のどぶ漬けになっていますから、人間の思考方式はすべて罪悪的、罪業的なものです。これをできるだけ修正しなければならないのです。
人間が現在生きていることの責任感、義務感を、どこに置かなければならないか。イエスは、私は生ける神の子キリストであると言った時に、どのような責任感と義務感を持っていたのか。主なる神のみに仕えよと言いきったイエスは、どのようなポイントに立って認識していたのか。父は今に到るまで働きたもうとありますが、どのように働いているのか。それと神の安息という大テーマとどのようにかかわっているのか、そういうことを子細に点検しなければならないのです。
現代に生きる私たちが、どういう考え方で生きるべきか。それを幼児的認識とどのように、からみあわせていくべきかということです。
私たちは生まれた時から原罪のどぶ漬けになっているために、原罪的な認識しかできないのです。原罪的な認識のテクニックしか知らないのです。自分の認識の大欠点を発見して、イエス・キリストの信仰を学ばなければならない必要性があるのです。
専門的な言い方になりますが、イエス・キリストの信仰は、水と血で成立していたのです。私たちとは存在の原理から認識の状態まで、すべて違っていたのです。私たちも神の子の信仰を持たなければならないのです。イエスが神の子であったことを信じる信仰です。イエスが神の子であることを信じるというのは、水と血をかねてきたことを信じる信仰です。神の子の信仰は、すべて水と血できた信仰です。この信仰の原点から検討していかなければならないのです。
私たち異邦人は、ずぼらな生き方をしています。そのずぼらさをできるだけ精密に認識して、私たちの内からずぼらさをできるだけ精算しなければならないのです。それをする方法が、山上の垂訓になるのです(新約聖書、マタイによる福音書五章~七章)。
私たちは生まれた時から原罪のどぶ漬けになっていることを、いつでも忘れないようにしなければいけないのです。自分の思いは良くても悪くても、根本的に間違っています。良いことは良いように間違っていますし、悪いことは悪いように間違っています。ですから私たちは自分の思いを、絶対に信用してはいけないのです。
自分の思いを信じてはいけないということは、腹を立ててはいけないということになるのです。自分の思いが間違っていますから、腹を立てることも間違っているのです。自分が腹を立てれば、必ず邪悪な思いで腹を立てるに決まっています。気にいらないと思えば、邪魔な思いで気にいらないに決まっています。
暗くなるというのは、どんな原因があっても、自分が悪いに決まっています。暗くなったらもう負けです。兄弟を怒ったらだめです。あれは役に立たないと思ったら、もうだめです。
日本人が毎日使っている言葉が、皆神に逆らっています。神をバカにしているのです。現世に生きている人間の気持ちではだめだということです。
生まれてきたままの人間が、現世の考えで生きている以上、山上の垂訓は絶対に守れません。従って、永遠の命はつかまえられないのです。私たちは、生まれてきた後の自分の生きかたを、どうしても否認しなければならないのです。これを認定すると、自分の思いが発生します。自分が何十年間かこの世に生きてきたことを認めると、必ず自分の思いが相拠を持つようになるのです。これが自分の記憶です。自分の認識です。自分の記憶、自分の認識は、神の前では通用しません。
記憶が罪悪です。自分の認識が憲です。もし死ぬのが嫌なら、とこしえの裁きが嫌なら、徹底的に自分の良心と妥協すべきです。良心と和解すべきです。
江戸時代に、徳川幕府が諸侯の監督として、付家老を送りました。それと同じように、良心は神からの付家老です。良心は厳然として人間を監視しています。人間に干渉するのです。
人間の精神と良心の関係を、良く知らなければいけないのです。イエスは山上の垂訓で、この点を厳粛に、正確に論証しています。は文明の終わりに、山上の垂訓を、もう一度歴史の表面に出さなければならないのです。これを学会の中心テーマにすべきなのです。
人間が自分の思いを信じることが罪悪です。原罪です。人間の記憶が原罪です。人間の記憶を信じているものは、全部地獄へ行きます。地獄の刑罰から逃れたければ、自分の記憶から逃れなければならないのです。これは厳粛な問題です。
地球が始まった時から、この原罪は決められています。その原則がどこから来ているかと言いますと、御座から来ているのです。
「見よ、御座が天に設けられており、その御座にいます方があった。その座にいます方は、碧玉や赤めのうのように見え、また、御座のまわりには、二十四の座があって、二十四人の長老が白い衣を身にまとい、頭に金の冠をかぶって、それらの座についていた。御座からは、稲妻と、もろもろの声と、雷鳴とが、発していた」(ヨハネの黙示録4・2~5)。
大宇宙の中心である絶対者が御座にすわっていて、そこから、稲妻と、もろもろの声と雷鳴が発している。これが森羅万象になっているのです。五官は稲妻ともろもろの声、雷鳴を感じているのです。五官は正確に神の命を感じているのですが、人間の意識はそれを全く認識していません。このずぼらな意識によって、肉の自分をそのまま自分だと思い込んでいるのです。だから地獄へ行くのは当たり前です。
イエス以後、山上の垂訓が、正確に、正当に説明されたことがないのです。私たち肉体は灰になりますが、記憶は灰にはならないのです。五十年生きてきた。六十年生きてきたという記憶は、絶対に灰にはなりません。自分の記憶によって、魂が束縛されているのです。これは恐るべき罪悪です。
この世に何十年間生きていたという妄念を解脱するのです。自分の記憶を一切信用しないことです。今生まれた嬰児のような気持ちで生きればいいのです。



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ユダヤ人の間違いが人類の不幸の根本原因
命を正しく見るということは、それほど難しいことではありません。皆様方自身の命についての見方が、間違っていることを確認すれば、死なない命、本当の命、宇宙的生命を捉えることができるのです。
現在、皆様は、毎日、太陽のエネルギーを、色々な形で経験しておいでになります。好天気の場合は、太陽エネルギーをはっきり感じることができます。
太陽光線の実体は何かと言いますと、これが死なない命を現しているのです。地球という物理的な存在は、太陽光線という死なない命をそのまま受け入れています。
ロマンチックな言い方をしますと、太陽という永遠の男性のエネルギー(精子)が、地球に放出されている。太陽という永遠の男性が、地球という女性を抱いているのです。
ご承知のように、地球はどんどん孕んでいます。これは女性的な姿です。永遠の地球である女性が、永遠の男性である太陽に抱かれている。これが太陽系宇宙の実体です。この実体の意味が分かれば、死ななくなるのです。
ところが、現代文明は太陽と地球の関係を考えずに、人間が生きることだけを考えている。これがユダヤ人の大変な間違いです。ユダヤ思想の間違いが、文明の間違いになっているのです。
皆様は現在、常識的に生きておいでになります。常識的に生きているということは、必ず死なねばならない命にしがみついていることなのです。
常識は、死んでいった人間が残した考えです。五百年前、千年前等の人間が残した常識が、今生きている人間の常識になっているのです。
常識は、死んでいった人間、死んでいくに決まっている人間の考え方です。皆様がその常識に従って生きておいでになりますと、皆様は必ず死にます。死ぬに決まっているのです。
死をいくら嫌がっても、常識に従って生きていれば、必ず死ななければならないのです。常識的に生きているということが、死ななければならない命を、自分の命としていることになるのです。これが般若心経で言う五蘊皆空です。
現在皆様は、太陽というすばらしい命のシンボルを、毎日、見ておいでになります。太陽のエネルギーは、死なない命の象徴になっています。死なない命の象徴を、現在皆様は、宇宙的エネルギーとして、毎日、経験しておいでになります。
ところが、死んでしまうに決まっている命を、自分の命だと思い込まされているのです。誰に思い込まされているかと言いますと、文明というとんでもないもの、ユダヤ思想というとんでもない間違いによって、人間は死なねばならない命を押しつけられているのです。生活の一時的な便利さと引き換えに、永遠の裁きを受け取ることになるのです。人間はなぜこんなばかなことをしているのかと言いたいのです。
般若心経に、般若ハラミタとあります。これは常識というおろかなものを、真向から否定しているのです。
般若ハラミタとは、彼岸へ渡る上智です。死なない命へ行ってしまえと言うのです。これが上智、いわゆる般若です。これは彼岸へ渡る上智の説明でありまして、彼岸そのものの説明はしていません。
般若心経は死なない命そのものの説明はしていないのです。現在の人間の考え方が間違っていることを、色々な角度から説明しているのであって、彼岸の実体を説明しているのではありません。だから、般若心経だけでは、本当の彼岸をつかまえることはできないのです。
そこで、キリスト教ではない聖書、本当の神の言葉である聖書が必要になってくるのです。
キリスト教でも仏教でも、宗教は人間が造った観念です。人間の頭で考え出した神様、仏様を拝んでいるのです。これは命の実体とは関係がないものです。
いくら熱心に、宗教の神様、仏様を拝んでも、やはり人間は死んでいきます。宗教は死んでから極楽へ行くと言います。死んでから天国へ行くと詭弁を弄するのです。
死んでからというのは、とんでもないインチキです。死んでから天国へ行くというのは詭弁そのものです。
般若心経には無老死と書いています。般若心経の真髄を弁えれば、死がなくなると言っています。新約聖書の中でイエスは、「生きていて、私を信じる者は死を見ない、永遠に死なない」と言っています。死に勝つことが聖書の目的であって、死んでからというのは、死を容認する考え方、死に降参した考えです。これは般若心経と聖書に真向から対立する考えです。
だいたい死んでから、天国へ行けるかどうか分かりません。宗教の指導者は、死んでしまえばそれまでといって、逃げてしまえるのです。
現世には、寺や教会があります。現世では宗教のいう事は通用しますが、現世を去ってしまいますと、寺や教会のない所へ行くのです。そこで宗教観念が通用するのでしょうか。寺があればこそ、仏教は通用します。教会があればこそ、キリスト教が通用するのです。そういうものがない所へ、皆様は行かれるのです。
この世の命が終わってから何かの足しになるだろうと思って、後生安楽の宗教を信じているのですが、死んでからでは宗教は何の役にも立たないのです。ここに現代文明のとんでもないインチキがあるのです。文明はインチキそのものです。これがユダヤ思想の悪い点です。
ユダヤ人が世界の経済を支配しているから、けしからんと言ってユダヤ人を攻撃している本が、たくさん出ていますが、こういうことは小さな問題です。金持ちがお金をたくさん持っているのは、当たり前です。それに文句を言うのはおかしいのです。
ユダヤ人が悪いのは、彼らの思想を世界中に押しっけて、命ではないのに命だと思わしていること、文明ではないのに文明だと言いふらして、六十四億の人間をたぶらかしていることです。これが悪いのです。政治や経済の問題ではありません。もっとも悪いのは宗教力です。現代文明は、ユダヤ教を基礎にして成り立った、人間生活に関する世界観です。
常識で生きておいでになりますと、必ず死にます。皆様の常識を造ったのは世界の文明です。かつて死んだ人間、又現在生きていても死ぬに決まっている人間が考えている常識、学問が、命のために役に立つのでしょうか。簡単なことです。常識を捨てるという勇気さえあれば、死なない命を捉えることは十分にできるのです。
どうか今までの考えを変えて頂きたいのです。彼岸へ渡るというのは、死なない世界へ行くことです。死なない世界へ行くことが、人生の一番大きい問題です。そのために、自分の命についての考えを、常識や宗教でごまかさないで頂きたいのです。
宗教はこの世で通用するものです。この世を去ってしまえば一切通用しません。そこで私は、魂のボランティアとして、宗教が間違っている。文明が間違っていると言っているのです。
文明は生活の方式です。生活のために文明を用いるのは、当たり前です。生活のために、車や電車、飛行機に乗り、テレビや電話、パソコンを用いることは当たり前です。文明を生活のためにどんどん利用することは結構ですが、文明にかぶれて、自分の精神まで文明に売り渡すことは、絶対によくないのです。それは肝心の命を溝に捨ててしまうことになるのです。
文明は靴のように履くものです。頭にかぶるとひどい目にあうのです。
命についての考えを変えればいいのです。常識で生きることをやめて、般若心経を静かに勉強して頂きたいのです。
般若心経は、人間は空だと言っています。般若心経は人生の公義です。公義は宗教ではありません。公義という言葉は岩波書店の広辞苑にも載っていません。それほどめずらしい言葉です。
五蘊皆空は、人間の常識は皆間違っているという意味です。人間の常識に従って生きていれば、死ぬに決まっているからです。
常識をやめて、公義に従って生きる勇気があれば、皆様の精神を転換することはできるのです。仏教やキリスト教という宗教に捉われないでいただきたいのです。
東洋人も西洋人もありません。人間は一種類しかいないのです。東洋とか西洋とかいう小さな思想をやめて、命の勉強をしようというお気持ちが芽生えれば、死ぬべき命から脱出することは、十分にできるのです。
なぜユダヤ人が人類を指導しているか
神がユダヤ人に約束を与えたことによって、ユダヤ人が約束の民になったのですが、一体約束の民とは何かと言うことです。
ノアの洪水の後に、神がアブラハムに約束を与えたのは、どういうことでしょうか。神がアブラハムに約束を与えたことが、ユダヤ人に正確に認識されないために、文明が混乱しているのです。これは重大な問題です。
神がどういう気持ちで、アブラハムに約束を与えたのか。アブラハムはそれを、どういう気持ちで受け取ったのか。このことが正確に捉えられていないために、人間文明に大混乱が起きているのです。
その結果、全ての人間が全部死んでしまうような運命にさらされているのです。今の人間は、ただ死ぬしか道がありません。死ぬためだけなのです。何をしても、必ず死んでしまう運命に置かれているのです。これはとても悲しい運命です。
死んでしまうだけならいいのですけれど、人間として生きている状態で権利をふり回しているのです。例えば、衣食住の生活で、自分の好きなことをしてもいいと考えている。衣食住の生活で好きなことができるのは人間だけです。食べたいものが食べられる。着たい服が着れる。住みたい家に住める。これは人間だけがしているのです。人間はこのような人間の特権を、人間は平気で行使している。人間に与えられている権利を、どんどん実行しているのですが、義務のことを全然考えていない。
権利を実行して義務を考えないのは、神をバカにしていることになるのです。もらうものだけもらって、その責任を全然実行していない。果たしてこれでいいのでしょうか。そのために、現在の全世界の人間は、死ぬしかない人になっているのです。
旧約聖書には、全ての人は必ず死ぬ。死んだ後に裁きを受けるとは、全然書いていません。なぜでしょうか。新約聖書にははっきり書いているのです。旧約時代には、裁きがなかったのでしょうか。
旧約聖書にあります。今から四千年も前に起きた事件ですが、中東地方で大洪水が発生したのです。その時、人間の考えが、皆悪ばかりになってしまった。人間のイマジネーションが、悪ばかりになったのです。肉体的には生きている人間、現象世界だけを見るようになったのです。
神はこんなものを造った覚えがない。肉体のことしか考えないものは、人間ではなく動物だから、すべて殺してしまおうと考えた。ができなくなった。これがノアの洪水の原因です。
人間が正当な人間であれば、神は殺す必要はない。少々悪いくらいなら、しかたがないのです。生かしておこうと考えたはずです。ところが、人間が人間ではなくなった。全部獣になってしまったのです。
人が皆、その道を乱したとあるのです。道を乱したというのは、人間が人間であることの道を、混乱させてしまったということです。
道という言葉は、一つの原理を意味するのであって、人間の罪悪が、神が造った原理ではない、別の原理を追ってしまったということです。
原理というのは遺伝子ということです。生物学的に言うと、生物というのは遺伝子によるのです。犬が犬であるのは、犬の遺伝子によるのです。猫にいくらよく似たものでも猫ではない。やはり犬です。それは遺伝子によるのです。これを道と言います。
人間が人間であるのは遺伝子によるのですが、それを悪魔の遺伝子にすりかえた。これが原罪です。人間であるという位置を悪魔の位置にすりかえてしまった。これを陥罪、原罪と言うのです。
神はそんな人間を造った覚えはない。従って、こんなものを人間扱いしておく必要はない。生かしておく必要-まない。全部滅ぼしてしまおうと考えたのです。
霊(非現象世界)のことを考えて、初めて、人間と言えるのです。ところが、その時、ノアだけが人間として認められる思想を持っていた。ノアはこの世の義人でした。義人というのは、神から見て正しい考えを持っている人です。
神はノアだけを人間として認めたのです。仮に、全部の人間を殺しても、アベル、エノク、ノアの三人が神の前に存在しているから、他の人間を全部殺しても、三人いれば教会ができるのです、神が人間を造った効果はあったのです。
神は天使長ルシファ一に、すべての天使を治めさせていましたが、この天使長が反逆したのです。これが悪魔の反逆です。神は悪魔を滅ぼして、この三人を天使長にすればよかったのです。
男性は本当に男性であることを自覚すると、預言者になります。女性は本当に女性であることを自覚すると預言者のあばら骨になるのです。これが男性と女性の違いです。
女性の本質は何かと言いますと、あばら骨です。あばら骨とは、愛の根源を意味するのです。言葉が肉となったとありますように、男性の本質は言葉です。女性の本質は愛です。
男性が本当に完成すると、言葉が肉となったという所にいくのです。女性が本当に完成されると、本当のあばら骨になりきる所に行きつく。ここが違うのです。
女性の本質はあばら骨であって、あばら骨であることに徹すれば、愛の本質に徹することになるのです。あばら骨は愛を意味します。骨は本質、霊なるものです。又は本体を意味します。愛の本体であるもの、愛の霊であること、愛の本質であるものがあばら骨です。
本当の女性にならなければ、成仏できないのです。成仏するというのは人間が人間でなくなって、仏さんになってしまうこと、普通の人間ではなく、上質の人間になりきってしまうことです。これが成仏です。
イエスは成仏したのです。成仏したから甦ったのです。死を破ったのです。仏になるということは、神から見て理想的な信じ方だと認定されることです。神をもっとも上手に信じる信じ方を言うのです。仏になったら、本当に神を信じることになるのです。これは死なない人です。これが成仏です。
神を本当に信じることが成仏です。神というのは仏の父であって、仏を造る父です。仏を仏と認定する力を持つものが神です。これを信じるものが、仏です。人間は成仏しますが、成神はしない。人間は神にはなれないのです。ならなくてもいいのです。
男性は絶対に成仏しなければいけません。女性は骨になるのです。人間の深みをよくよく勉強しなければいけないのです。
ノアの洪水の直前に、人間は道を乱してしまった。暴虐が世に満ちたとあるのです。道を乱すということは、遺伝子というべき人間存在の本質が消えてしまって、悪魔の思考方式が、そのまま人間に植えられてしまったのです。
人間の遺伝子とは、魂の遺伝子をさすのであって、肉体の遺伝子ではありません。動物の場合の遺伝子は肉体的に用いられていますが、人間の霊魂の場合は、精神的なものになります。肉の思いというのは、精神的な遺伝子でありまして、これを原罪と言うのです。
信仰というものは精神的な遺伝子であって、イエスは信仰の導き手であり、それを全うしたものであると、証明されたのです。
人間の本質は魂であって、魂の本質も遺伝子です。アダムは魂の本質である精神の遺伝子を砕いてしまったのです。
イエスは第二のアダムですが、アダムが砕いたものを、元に返したのです。イエスは第二の遺伝子になったのです。第一の遺伝子は死、第二の遺伝子が生です。人間の中に、死の遺伝子と生の遺伝子が存在しているのです。どちらの遺伝子を捕まえて自分の命にするかによって、人間の運命が決定されるのです。
女性が本当の女性になるためには、第二の遺伝子に基づいて、愛が考えられるようにならなければいけないのです。
男性はただの骨、女性は骨の骨です。女性が骨の骨であることを悟る時に、男性は預言者でなければならいことに気がつくのです。
私たちは人間完成をするために生きているのであって、この世の生活を喜ぶために生きているのではないのです。人間完成という絶対的な責任があるのです。この責任を自覚しないものは、この世を追われて、地獄へ放りこまれるに決まっています。
現世に生きている人間は、人間として生きることを、神に許されているので、非常に贅沢な善びを経験しているのです。犬や猫では考えられないような、まして、どぶねずみでは考えられないような、高級な喜びを経験しているのです。高級な善びの本当の意味を知らないからいけないのです。
喜びを味わっているのはいいですが、この世における人間生活の楽しみの素晴らしさがどういうものか、これは皆、とこしえの命に関係があるのです。とこしえの命に関係があればこそ、生きている喜びは素晴らしいのです。
女性の性の喜びの素晴らしさは何か。これはとこしえの命の喜びでなければ、こんな素晴らしさはないのです。女性の喜びは、最高の喜びです。これはただではもらえない喜びです。このことを自覚しなければいけないのです。
物の妙を心得なければいけないのです。物の妙を心得えると、今まで働かなかった脳細胞が働きはじめるのです。今まで五パーセントしか働かなかった脳細胞が、十パーセント位働くようになるでしょう。倍になるのです。それでもまだ十パーセントです。女性は十パーセント位でもいいでしょう。男性は預言者にならなければなりませんから、十パーセントくらいではいけないのです。
ノアの洪水の時、人間が道を乱したので、人間の精神次元が動物並になったのです。考えることが皆悪になったのです。そこで、こういうものを生かしていてはいけないということで、ノアの洪水が実現したのです。
ノアの洪水の直前に、人間は全部動物並になった。洪水の後に、人間が動物以上になったかというと、そうではないのです。神はノアだけを義人として扱ったのですが、ノアの家族は全部動物並でした。
動物並に扱われたから、肉を食べることを許されたのです。もし人間だったら、穀物とか木の実を食べていたのです。実を結ぶ木の実と、実を結ぶ野菜が、人間の食物だったのです。人間の霊魂は、実を結ばなければならないからです。
ところが洪水以後は、食べ物が変わったのです。牛でも豚でも、食べたいものは勝手に食べても良くなった。何故なら、人間が動物になったからです。これは有難いような有難くないような話なのです。
日本人は、明治までは、四つ足の動物は食べなかったのです。今は四つ足の動物が好きなのです。人間が動物並みになったから、動物を好んで食べるのです。
神はノアの洪水以後、人間を全部動物扱いしました。ノアの家族でさえも動物扱いしたのです。これが虹の契約になって現れているのです。虹の契約は、人間と全ての生き物に対して与えられたのです。これは人間と動物が、同じに扱われていることを意味しているのです。
神は洪水直前から、人間を全部動物として扱うことを宣言した。ノアの洪水で滅ばされたのは、人間ではなく動物として殺されたのです。
人間として認めたノアだけは殺されなかった。ノアは人間として認められていたからです。ノアの家族に動物を食べることを許したのは、おまえたちは動物だという神の意志表示になるのです。
アブラハムに約束を与えたのは、自分の気持ちが分かっているから、人間だから与えたのです。神が犬に約束を与えることはないのです。人間でも、犬や猫に約束をしないのです。自分の気持ちがはっきり分かってくれるから、約束を与えるのです。神がアブラハムに約束を与えた。これは人間として認めたからなのです。
アブラハムとユダヤ人は、人間として神に認められたのです。これが世界の長男です。全世界で、初めて人間として認められたのは、アブラハムとその子孫です。世界の長男として認められたのです。だからユダヤ人が考えることは、どうしても全世界の指導原理になってしまうのです。
世界の政治、経済、文明は、全てユダヤ人にリードされるようになった。いくら異邦人が力んでもだめです。
ユダヤ人を殺そうというのは、長男に対する妬みが半分以上でしょう。弟が兄貴を何となくけむたがっているだけです。そこでユダヤ人は、いつも弟や妹から妬みを受け、世界中でいじめられる事になったのです。
長男が長男らしくすればいいのですが、長男らしくしていないので困るのです。全世界の人間に、罪悪ばかり教えている。肉の思いばかりを流していて、長男ずらをしているから、神はユダヤ人を元の獣扱いをしなければならなくなった。イエス・キリストを殺したからです。預言者を殺したからです。神の一人子を殺した彼らを、元の獣に蹴落としてしまった。そのかわりに、異邦人が人間並に扱われたのです。これがキリスト生誕以後の新約時代です。これが西暦紀元、キリスト紀元です。
キリスト紀元というのは、異邦人が人間として扱われ、ユダヤ人がけむたい動物並に扱われる時代です。これが世界歴史の根源の内容です。
ユダヤ人は一番最初は、人間として扱われていたのです。これが今、異邦人に乗り移っているのです。今の異邦人は、旧約時代のユダヤ人の霊が、そのまま乗り移っているのです。異邦人は人間並みに扱われていながら、人間とは何かを全然知らないのです。人間ずらをしていながら、獣的な生活をしている。これをやめて、本当の人間にならなければならないのです。
女性の本性は愛です。人間の愛ではだめです。霊の愛でなければいけないのです。骨は霊(非現象)、骨の骨は霊の霊です。ふつうの霊はシャーマニズムの霊です。シャーマンよりもっと上等の霊ですから、骨の骨です。これは天の霊、神の霊です。
女性の美しさは、霊の霊です。これに気付かなければいけないのです。女性は預言者にならなくてもいい。骨の骨になればいいのです。骨の骨になると、初めて、女性の本当の良さ、素直さが分かるのです。男性はそれが分かればいいのです。
人間の本質は聖書をよく見れば、勝手に分かります。ノアの洪水以後、ユダヤ人が全世界で最初に人間になりました。ユダヤ人だけが人間でしたが、その時、異邦人全体は人間ではなかったのです。ユダヤ人だけが、理性のある人間、ホモ・サピエンスでした。異邦人の中には、ホモ・ファーベルがたくさんいたのです。カインの末裔がたくさんいたのです。
理性がある人間として認定できたのは、神の約束が理解できることが条件でした。これは高い条件です。
神が義と認めるのは、人間として正当であることを認識できる人です。固有名鞠の人間、自我意識による人間ではなくて、人の子であることを、認める人です。これを義とされるというのです。アブラハムは義とされた。神から見て、人間であると認定されたのです。
皆様も人間として認められたいなら、神の約束を正確に理解できなければだめです。
御霊(大自然に展開するエネルギー)を崇めることが、人間としての最低の基準になるのです。これができるのがユダヤ人でした。
ユダヤ人はモーセの掟を取り違えて受け取りましたが、モーセの掟を行わなければならないことくらいは心得ていたのです。神の約束を守らねばならないということくらいは、分かっていたのです。これは最低の状態ですが、この状態で新約時代がやってきたのです。
新約時代がやってきた時に、神の目から見て人間であるのは、ユダヤ人だけでした。異邦人は人間ではなく、獣だったのです。
ところが、ユダヤ人がイエス・キリストを殺すという、大事件が起きたのです。その結果、神はユダヤ人を獣扱いをして、異邦人全体を、人間としてみなすことになったのです。
これがどういう意味を持つのか、異邦人はよく分からなかったのです。異邦人は今まで獣のような生活をしていたので、人間であるためにどのような自覚が必要であるか、分からなかったのです。
これはあたりまえと言えるかもしれません。今まで神の約束を全然知らなかった。宗教というバカなものを信じていたからです。神々は信じていたが、誠の神が分からなかったのです。
「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない」(出エジプト記3・3)ということが、全然分らなかったのです。唯一の神、絶対神が分らなかった。民族それぞれの神を持っていたのです。それは誠の神ではないのです。
民族の神を拝むというのは、人間のすべきことではなくて、動物のすることです。日本人は日本の神を拝んでいる。これは動物のすることです。インド人はインドの神を拝んでいる。アフリカの人々はアフリカの神を拝んでいる。これは人間のすることではなく、動物のすることです。現世の人間が幸福になるという考えは、動物次元の考えです。
この状態のままで、新約時代がきたのです。そこで、全世界の中で人間であり、神の約束によって存在していたユダヤ人が、神を信じるとはこうすべきだという模範を示すべきであった。ところが、バカな模範を示してしまったのです。タルムードやミシュナを造って、これを拝んでいた。その信仰をそのまま異邦人に持ち込んだので、肉の思いが世界中に広がったのです。
そこで私たちは言わなければならない。全世界の不幸は、ユダヤ人の不信仰によるのです。ユダヤ人の世界観が間違っている。ユダヤ人の神観が間違っている。ユダヤ人の世界観、人生観が肉(現象主義的)であるために、全世界の人間が肉になったのです。
これをどうしても改めなければならない。どうしたら改められるのか。それはイスラエルの回復のために祈ることです。ユダヤ人の目を覚まして下さい。ユダヤ人の目を開けて、世界の長男としての本来あるべき状態に返して下さいと祈るのです。この願いが神に聞かれたら、全世界の人間が復活するのです。
パウロは次のように述べています。
「そこで、私は問う、『神はその民を捨てたのであろうか』。断じてそうではない。私もイスラエル人であり、アブラハムの子孫、ベニヤミン族の者である。神は、あらかじめ知っておられたその民を、捨てることはされなかった。聖書がエリアについて何と言っているか、あなたがたは知らないのか。すなわち、彼はイスラエルを神に訴えてこう言った。『主よ、彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇をこぼち、そして、私一人が取り残されたのに、彼らは私の命をも求めています』。しかし、彼に対する御告げは何であったか、『バアルに膝をかがめなかった七千人を、私のために残しておいた』。それと同じように、今の時にも、恵みによるのであれば、もはや行いによるのではない。そうでないと、恵みはもはや恵みではなくなるからである。では、どうなるのか。イスラエルはその追い求めているものを得ないで、それを得た。そして、他の者たちはかたくなになった。
『神は、彼らに鈍い心と、見えない目と、聞こえない耳とを与えて、今日、この日に及んでいる』と書いてある通りである。ダビデもまた言っている。
『彼らの食卓は、彼のわなとなれ、網となれ、つまずきとなれ、報復となれ。彼らの目は、くらんで見えなくなれ。そこで、私は問う、『彼らがつまずいたのは、倒れるためであったのか』。断じてそうではない。かえって、彼らの罪過によって、救いが異邦人及び、それによってイスラエルを奮起させるためである。しかし、もし、彼らの罪過が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となったとすれば、まして彼らが全部救われたら、どんなにか素晴しいことであろう。
そこで私は、あなたがた異邦人に言う。私自身は異邦人の使徒庵いる。もし彼らの捨てられたことが世の和解となったとすれば、彼らの受け入れられることは、死人の中から生きかえることではないか」(ローマ人への手紙11・l~5)。
続いて述べている。
「もし、麦粉の初穂が清ければ、そのかたまりも清い。もし根が清ければ、その枝も清い。しかし、もしある枝が切り去られて、野生のオリブであるあなたがそれにつがれ、オリブの根の豊かな養分にあずかっているとすれば、あなたはその枝に対して誇ってはならない。たとえ誇るとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたを支えているのである。すなわち、あなたは、『枝が切り去られたのは、私がつがれるためであった』と言うのである。まさに、その通りである。彼らは不信仰のゆえに切り去られ、あなたは信仰のゆえに立っているのである。高ぶった思いをいだかないで、むしろ恐れなさい」。
麦穂の初穂が清ければ、その枝も清い。もし根が清ければ、枝も清いのです。ユダヤ人は初穂の人間をいうのです。初穂としての人間が清くなれば、全世界の人間が清くなる。これがローマ人への手紙第十一章に書かれているのです。
麦穂を清くするために、初穂の民族を清くして下さいと、私たちが祈らなければならない。今、この祈りをしている人が、世界中にいないのです。これをすれば、地球に完全平和が実現します。地球上から監獄、刑務所、病院がなくなるのです。
現在の人間文明は、ひどいものです。こんなものは文明ではありません。動物文明にすぎないからです。こういう状態の中でキリスト再臨、千年王国のことをお話ししても、全く夢物語のように聞こえるでしょう。しかし、これは、必ず実現します。人類が六千年間、心の底で持ち続けてきた悲願だからです。全ての人が、心の底で、待って、待って、待ち続けてきた切願だからです。
釈尊は、今から二千五百年も前に、明けの明星を見て、全く新しい文明が現れることを望見したのです。だから今の文明は間違っている。一切空と言ったのです。これが般若心経の基礎になっているのです。
今世界で、こういう雄大な思想を持っている人はいません。全人類の運命はどうなるか。人類の希望、本当の平和は、どうしたら実現できるのか。生活難がない、病気、犯罪、自然災害が全くない世界を、どうして実現するかを、六十四億の人間が全く知らないのです。
それは、イスラエルの回復によって見事に実現するのです。イスラエルさえ悔い改めれば、あらゆる問題は、完全に解決される。これは歴史の急所です。これをぜひ理解して頂きたいのです。

ユダヤ人が悔い改めれば、地球上に千年間の絶対平和が訪れる
ユダヤ人が悔い改めるといっても、どういう意味か分からない人が多いと思います。本来のあり方から考えて、ユダヤ民族は非常に大きな間違いに陥っています。これが文明の混乱している原因になっているのです。
ユダヤ人が悔い改めれば、世界に驚くべき平和が実現するのです。地球上から、ガン、エイズ、伝染病が一切なくなり、地震、台風、津波、飢健、噴火、竜巻等の自然災害がなくなるのです。そして、一切の犯罪もなくなり、全世界から刑務所、病院、軍隊がなくなるのです。これは聖書に預言されていることで、必ず実現するのです。
ユダヤ人が悔い改めたら、地球上から、戦争、内乱、テロ、一切の犯罪がなくなり、地震、台風、津波、飢饉、噴火、竜巻、旱魃、洪水等の自然災害がなくなる。そして、ガン、エイズ、伝染病、あらゆる病気が消滅する。何を根拠にして、そういう途方も無い世界が実現するかということです。
旧約聖書の創世記によれば、もともと人間は、神にかたどって、神のかたちのように造られたとあります(1・26)。これに命の息を吹き込んだのです(2・7)。ですから、どうみても、死ぬべき存在ではなかったのです。これに相応しい自然環境が「エデンの園」でした。これは文字どうりのパラダイス、地上の楽園でした。ところが、人祖アダムとエバは、造られた目的、エデンの園に置かれた意味を、全くわきまえなかった。
その結果、ヘビ(悪魔)に騙されて、神が絶対に食べてはいけないといわれた「善悪を知る木の実」を食べてしまった。これは、自ら善悪を判断する場に立ったのです。善悪利害得失毀誉褒貶を、絶対公平に判断するというのは、本来、神しかできないことです。それを人間がすることになった。人間が神と同じあり方になった。つまり神になったことを意味するのです。
そこで主なる神は言われた、「見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない」。そこで主なる神は彼をエデンの園から追い出して、人が造られたその土を耕やさせた。神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、命の木の通を守らせられた(3・22-24)。
善悪を知る木の実を食べた結果、人間に自我意識が生じたのです。自我意識とは何かといいますと、自分が一番偉いという意識です。自分を絶対とする意識で、世界で一番偉い、自分を神とする意識です。自我意識があるために、人を憎み、絶えず争い、傷つけ、殺し合いをするのです。人間社会のあらゆる矛盾、軋轢、混乱の原因は、自我意識にあるのです。
善悪を知る木の実を食べたので、神はエバに次のように宣告しました。「わたしはあなたの産みの苦しみを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む。それでもなお、あなたは夫を慕い、彼はあなたを治めるであろう」(3・16)。
そしてアダムには次のように言われた。「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、地はあなたのためにのろわれ、あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。地はあなたのために、いばらとあざみを生じ、あなたは野の草を食べるであろう。あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、あなたは土から取られたのだから。あなたはちりだからちりに帰る」(3・17-19)。
本来、人間は神のかたちに造られ、神によって生かされているから、苦しんでいきるはずがない。ところが、絶対に食べてはいけないといわれた善悪を知る木から取って食べたので、一生苦しんで生きることになった。現在のサラリーマンの勤務実体、自営業の営業実体は、まさにこのようになっているのです。弱肉強食の世界の中で、戦々恐々として、生きなければならないのです。
しかも、人が罪を犯した結果、地が呪われてしまった。地球が呪われたのです。これが地震、台風、津波、飢饉、噴火、竜巻、旱魃、洪水等の自然災害になって現れているのです。
自我意識とは何か。イエスは自我意識について、次のように述べています。「あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どうりを行おうと思っている。彼は初めから、人殺しであって、真理に立つものではない。彼のうちには真理がないからである。彼が偽りを言うとき、いつも自分の本音をはいているのである。彼は偽り者であって、偽りの父であるからだ」(ヨハネによる福音書8・44)。
自我意識とは何か、なぜこんな意識があるかと言いますと、悪魔の意識なのです。悪魔は最初から悪魔ではなくて、ルシファーといわれる大天使でした。多くの天使を治める天使長で、彼には絶大な知恵と能力が、貸し与えられていました。ところが彼はかしあたえられている知恵と能力を、自分自身の知恵と能力だと考え違いをしたのです。そこで天使長ルシファーが、悪魔に転落したのです。
悪魔は自分がいるという自我意識と、形があるものがなければならないという現象意識を宇宙で始めて創造したのです。自我意識と現象意識が死の実体で、人間がこの意識を持ったので、死ななければならなくなったのです。ところが人間は、絶対に死にたくない。どうしても死にたくないのです。そこで死から逃れるためには、自我意識と現象意識を捨てればいいのです。悪魔によって騙されて死がはいってきたのですから、その逆をすればいいのです。死から脱出する原理をだれも知らないから、不思議です。
自我意識は、世界で自分が一番偉いと思う意識で、偽りそのもの意識です。神から離れて、自分が独立して生きていると考えている。これが偽りそのものです。人間は空気が無ければ、太陽が無ければ、絶対に生きられないのに、その恩恵を無視して、自分が勝手に生きられると思っている。事実、勝手に生きているのです。この考え方が偽りそのものです。しかも、自分の魂を全く無視している。これは魂殺しであり、人殺しになるのです。人間は自我意識があるために、果てしなく人を憎んだり、恨んだり、争ったり、傷つけあって生きていかなければならないのです。
人間はどうしても自我意識を捨てることができない。馬鹿は死んでも治らないといいますが、自我意識は死んでも永遠になくならない。そこで神はイエスを十字架につけたことによって、すべての人の自我意識を、否定してしまったのです。人間が絶対に捨てることができない自我意識を、神が全部帳消しにしてしまった。地球上から死が消えたのですが、この事実をユダヤ人がどうしても受け入れない。そこで、依然として消えたはずの死が、いまだに地球にのさばっているのです。死ななくてもいいのに、いまだに人間が死んでいくのです。
やがて、ユダヤ人が、その間違いに気がつくときがくるでしょう。そしてイエス・キリストの十字架と復活をユダヤ人が受け入れ、これが文明の中心になるのです。これは必ずやってきます。そうして、人間社会から、あらゆる矛盾、軋轢、争いが消えるでしょう。そして、呪われた地球が回復されて、あらゆる自然災害、すべての病気が消滅し、千年間の、驚くべき絶対平和が実現するのです。
ユダヤ人の祖先であるアブラハムは、世界で一番最初に、地球を造った神を発見しました。そこで神は、ユダヤ人を人類のリーダーとして、数々の約束をしました。
「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地のすべてのやからは、あなたによって祝福される」。(旧約聖書創世記12・2,3)。
これがユダヤ人にとっての、大メッセージになっているのです。神がユダヤ人に地球の運営をまかせたのは、どこまでも、神の意思に従うという条件つきでした。ところが、ユダヤ人は、神の意思に全く従わず、自分たちだけの考えで、行動したのです。そのために、人類は目的を失って、混乱状態になったのです。
ユダヤ人が悔い改めれば、千年間の絶対平和、完全平和が実現するのです(新訳聖書ヨハネの黙示録20・1-6)。
ユダヤ人は何をどう間違えたのか。人間が肉体的に生きているという考えを、断定的に創造したのがユダヤ人なのです。モーセの掟を、肉体的な人間が守ろうと考えた、これが間違った考え方を持った人間が、地球上に棲息しはじめた原因なのです。
人間は肉体を持って生きていますが、それは精神構造という無限の働きを活用するためなのです。精神構造という無限の可能性を否定して、肉体だけを認める人間ができてしまった。これはユダヤ人から広まったのです。
元来、人間として神の前に生きておれるのは、ユダヤ人だけなのです。神の約束に係わりがあったのは、ユダヤ人だけなのです。
神の約束とは何かということです。その前に神とは何かということですが、神とは命の根源なのです。地球を地球としているもの、人間を人間としているものが、誠の神なのです。神とは、人間が承知してもしなくても、純然たる客観的実在です。
地球には、強力な電磁波が造られています。電離層とか、バンアレン帯があって、それが地球に強力な電磁場を造っているのです。地球を生き物にしている力が、神なのです。神の働きがなければ、地球に植物、動物が棲息できないのです。
この神がユダヤ人に約束を与えました。ユダヤ人に与えた約束とは、ユダヤ人だけを人間扱いするという、神の宣言なのです。
ユダヤ人の身の上話は、私たちの命に重大な意味を持っているのです。ユダヤ人の盛衰興亡の歴史は、世界全体の人間の運命の根底になっているのです。こういうことが、日本人には全く分かりません。聖書を知らないからです。
キリストとは宗教の指導者ではありません。命の源である神の地球計画なのです。神は地球計画を、ユダヤ人の祖先に打ち明けたのです。地球をこういう理由で造ったのだと、神が言ったのです。これがユダヤ民族の始まりです。
アブラハムが神の相談相手になったのです。神がアブラハムを友と呼んだのです。ノアの洪水の時に、ノアの家族だけが助かり、残りの人間が全部殺されてしまったのです。今、生きている人間は、全部ノアの子孫になるのです。ノアの子孫から、アブラハムが出たのです。
神はアブラハムに約束を与えました。これが世界歴史の根本になっているのです。たとえば、白人が文明の中心になっている。黒人が下におかれている。かつて、黒人が奴隷売買の対象になっていたのです。これは、ノアの洪水の事件が分からないと、理解できないのです。
そのように、人間の歴史の流れは、聖書を見なければ分からないのです。仏教をいくら勉強してもだめです。人類の歴史の流れが、命の流れの本源なのです。これは宗教では分からないテーマなのです。命が分からないのです。日本人は島国根性を持っていて、分からないことは知らなくてもいいと思っています。日本で通用する理屈こそが、まともな考え方であると、自己中心的に孝えているのです。
六千年の歴史の流れは、神の方針に従って流れてきたのであってユダヤ人間題は、神の方針の中心の問題なのです。
キリストが復活するまでは、神はユダヤ人を中心にして地球計画を追っていたのです。今はユダヤ人は神の意志に背いていますが、ユダヤ人は本当の神をつかまえでいた中心民族だったのです。
かつて、ユダヤ人は神からモーセの掟を与えられました。その時ユダヤ人たちは、神に直々に仕えるか、掟を守るかの選択をせまられ、掟を守る方を選んだのです。
しかし、神の掟は行えないものです。それを行おうと孝えていることが、ユダヤ教の間違いです。
神の掟の中心思想は何かと言いますと、自分が生きているという考えをやめなさいと言っているのです。あなたの命は神が与えたものなのだから、神の命に生きなさい。自分の命に生きてはならない。これが掟の中心思想なのです。
十戒の冒頭で、神は「わが顔の前に、われの他、何ものをも神とすべからず」(出エジプと言っています。わが顔とは、人間が生きていること、雨が降っていること、太陽が輝いていることです。私たちはいつも、神の顔を見ているのです。
ところが自分が生きていると思いますと、とたんに、自分自身が神になってしまうので自分が生きていると考え方と、自分の命、自分の健康、自分の気持ちが一番大事になるのです。その時自分が神になっているのです。
自分が生きていると思っている人は、自分という神を拝んでいるのです。これが間違っているのです。
わが顔の前に、何者をも神とするな。自分を神とするなというのです。自分が生きていると考えますと、神もあるかもしれないが、自分はもっと大切だと考えるのです。神はどんな人か分からないが、自分が生きているのはもっと確かだと思うのです。これは、神の前に、自分轟然と立っていることになるのです。自分が神になっているのです。
基本的人権ということが、しきりに言われています。基本的人権という考えが、神の権利をふり回す思想なのです。これがユダヤ思想です。白由、平等、博愛というフランス革命の思想は、ユダヤ思想です。
基本的人権によって現代文明が始まり、基本的人権が世界中に横行しています。民主主義は、基本的人権の芝居です。民主主義は政治体制としては悪くないのですが、人生観的には、非常に悪いのです。政治問題と人生問題を混同してはいけないのです。
ユダヤ人は、人間が生きているから、自分が掟を行って、神の前に大きな顔をしようと考えたのです。これがユダヤ教の始まりです。基本的人権の始まりです。
人間が生きている。人間が幸福になる権利があると考えるのです。幸福にならなければいけないのですが、人間が幸福になってはいけないのです。人間の本質は魂です。魂は、理性、良心、五官の本質です。生きていることの本質は魂です。魂が幸福になればいいのです。
固有名詞の自分が幸福になる必要はない。これは死ぬに決まっているからです。人の本質は魂ですから、魂が救われたら、勝手に幸福になるのです。現世の幸福だけでなく、永遠の幸福を与えられるのです。
ユダヤ人は魂を全く見落として、人間だけに目をつけたのです。これは間違いやすいのです。魂である私を見ないで、人間である自分を見たのです。
ユダヤ人は人間である自分を、神として拝んでいるのです。自分の自尊心を拝んでいるのです。自分の経験、自分の立場、自分の利害を拝んでいる。これは、神ではないものを、神としていることになるのです。この思想を世界に広げたのがユダヤ人です。自分という考えが、現代文明の中心になっているのです。その結果、とうとう文明が行き詰まって、どうにもならなくなったのです。地球を何十回も破壊できる核兵器を造ってしまったのです。
なぜこういうことになったかと言いますと、魂を全然しらないからです。人間が生きているとばかり思っているからです。人間が生きている本質を洗い出すと魂になるのに、全くそれをしてこなかったのです。
魂を全く考えないで、人間が大将になっている。人権主義は、人間を神に祭り上げて拝んでいるのです。この思想の源が、ユダヤ思想です。
魂とは何か。曹洞宗の開祖道元禅師が、「生を明らめ死を明らめるは仏家一大事の因縁なり」と言っています。人間が生きていることを明らかにするのです。これほどういうことかと言いますと、人間が生きているのは、人間という肉体が生きているのではない。生きている命が、形を造っている。これを魂と言うのです。このことを明らかにすることが、人間一大事の因縁であると言うのです。
明らかにするとどうなるかと言いますと、自分自身が仏になるのです。生死のうちに仏あれば、生死なし。人間が生きている間に、仏があればいいのです。仏とは、魂の実体を知ることです。私たちがこの世に生きている状態において悟りがあるなら、その時、その人は、現世から消えているのです。
この世に生きている間に、仏の悟りがあれば、この世に生きている事実はないのです。自分が生きているという事実はないというのです。
こういう人が、一人でもユダヤ人の中にいればよかったのです。預言者にはいましたが、民衆の中にはいなかったのです。預言者の言葉に反対して、民衆全体がユダヤ教を造ってしまったのです。この考えが、現代文明の基本的な考えになっているのです。その結果、自分が生きているという考えによって、世界中の人間が苦しんでいるのです。これがユダヤ人の罪悪です。ユダヤ人は人間の命の根本に反する思想を全世界に流しているのです。
ユダヤ人は非常に優秀です。他の民族はとても及ばないのです。ところがユダヤ人は、学問を通して、人間の権威、人間のカを誇張するのです。自分という人間がいる。自分という神を拝めというのが文明思想です。基本的人権があるというと、何となくうれしい気持ちがするのです。人間をうまくおだてあげて、自分たちの思想をユダヤ人は世界に流したのです。その結果、近代文明ができたのです。全世界を何十回も破壊できるような核兵器を造ってしまったのです。
これがユダヤ人の間違いで、この間違いを日本人が是正しなければならないのです。
日本人はユダヤ人を迫害していません。かえってユダヤ人を助けているのです。
日本は1931年に中国に進出し満州を占領しましたが、そこには13万人のユダヤ人コミュニティーが存在していました。その大半がハルピンで暮らしていたのです。彼らはすべてロシア・ユダヤで、二十世紀初頭に移住してきた人と、ロシア革命で逃げ出してきた人々でした。日本による占領後は、多くのユダヤ人がハルピンを離れて上海や天津に逃れましたが、残った五千人は自分たちの社会的、宗教的組織の維持をゆるされたのです。
1930年代後半には、中央ヨーロッパを脱出するユダヤ人難民が急増しました。その一部は東アジアに向かったので、日本はその支配地域に彼らを受け入れるかどかの決断をせまられましたが、日本の支配地域に居住するユダヤ人と区別せず、日本の領域に入ることを望むユダヤ人は、これを認める決定をしたのです。この方針の実施は、満州では、関東軍特務機関長の樋口季一郎と、関東軍におけるユダヤ人問題専門家の安江仙弘の手に委ねられました。樋口と安江はユダヤ人難民数千人の満州移住を許可しました。これを受けて、ハルピンのユダヤ人コミュニティーは、二人の名前をエルサレムにあるユダヤ民族基金のゴールデン・ブックに記載したのです。
1940年になると、ドイツ、ポーランド、リトアニアを脱出した三万人のユダヤ人難民が、日本を通過して上海の日本人租界へ逃げ込もうとしてやってきました。当時、ユダヤ人難民を受け入れる国はありませんでした。イギリスはパレスチナへの門を閉ざし、英連邦やラテンアメリカ諸国は難民受け入れに消極的で、アメリカも東ヨーロッパからの移民を厳しく制限していました。しかし日本は、ドイツとの同盟があったにもかかわらず、門戸を開いて、数千人のユダヤ人を救ったのです。
1939年から41年にかけて、数千人のユダヤ難民が神戸を通過しましたが、その中で、もっとも注目を集めたのは、ポーランドからきたイエッシバの教師と生徒でした。長い髪と黒いローブは日本人を驚かせたのです。日本人のおかげで、このイエッシバ全体がホロコーストを免れたのでした。神戸で難民の手助けをしたのは、地元のユダヤ人コミュニティーや、アメリカの救援組織、中田重治の日本ホーリネス教会などで、子辻博士も通訳を買って出ました。
個人として多くのユダヤ人を救ったのは、リトアニアのカナウスに日本領事代理として赴任していた、杉原千畝(1900-1986)です。1940年の夏、ポーランドとリトアニアのユダヤ人難民四千人に、日本政府の許可なしに自分の判断で、通過ビザを発行しました。これによって難民たちは、シベリア横断鉄道に乗ってウラジオストックに行き、そこから敦賀に逃れることができたのです。45年後の1985年に、杉原はイスラエルのヤド・バァシェム国立ホロコースト記念博物館から「諸国民の中の正義の人」の称号を受け、エルサレム近郊に杉原の名で記念植樹が行われました。
日本人の言うことなら、しぶしぶ聞くでしょう。文明国のほとんどはユダヤ人を迫害し続けてきたので、彼らの言うことを聞くことができないのです。ユダヤ人に忠告することができるのは、全世界で日本人しかいないのです。
世界の命の流れを阻んでいるのは、ユダヤ人です。神と人間との関係を遮断しているのは、ユダヤ文明の思想です。これがなくなると、世界の文明が一変して、驚くべき平和、絶対平和が訪れるのです。






ユダヤ人を通して人類に押し付けられた大嘘
 何千年にわったて、人類全体を騙し続けてきた犯罪があります。過去に類例を見ない、あまりにも大規模で、完全であるために、誰も気がつかないのです。
 ユダヤ人が、「自由」、「平等」、「基本的人権」という思想を発想して、流しましたが、異邦人がそれを無批判でうけいれて、世界全体に瀰漫しました。ところがこれが偽物だったのです。ユダヤ人がそれを偽物と認識して、意図的に流したかどうか分かりません。
 今、人類は疑いもなく「自由」「平等」「基本的人権」思想が、絶対に間違いがない、有り難い人類普遍の思想だと思っていますが、本当でしょうか。私たちは、日常生活で、ガン、心臓病、脳卒中、肝炎、インフエンザ等色々な病気に脅かされています。いつ起こってくるかしれない地震、台風、津波、噴火におびえています。夏は暑いし冬は寒いのです。
人生はだいたい100年くらいに限定させられています。500年、1000年も生きることはできません。屋久島の縄文杉は樹齢4500年といわれています。植物より人間の方が偉いといわれているのに、人間はわずか100年しか生きられません。鳥は自由に空を飛べるのに、人間は自由にとべない。これは本当の「自由」といえるものではないことを、示しているのです。住むところも、地上のみで、空中、地中、海中には、住めません。まして、地球以外に住むのは不可能です。
「平等」という概念ほど、偽りはありません。肉体的にも、知能的にも、人間は不平等につくられているのです。かつて、高橋尚子がオーストラリアのオリンピックの女子マラソンで、優勝しました。もし誰もが高橋尚子と同じ速さで走れたら、オリンピックの女子マラソンは成立しません。同様に、あらゆるスポーツは成立しなでしょう。
 顔かたちも、生まれつき絶世の美人もいますし、全然そうでない人もいます。これははなはだしい不平等です。また、生まれつき財産家の家に生まれて、一生遊んで暮らす人もいれば、貧しい家に生まれて、一生苦しんで日夜働きどおしの人もいます。
 生まれつき目が見えない人、耳が聞こえない人、口が聞けない人もいますし、全然歩けない人、植物状態で、一生ベッドに伏せている人もいます。これらの人々と、健常者の人と比べて、いったい人間は平等といえるのでしょうか。
 知能的にも同じです。もし誰もが、ベートーベンと同質の作曲ができれば、ベートーベンの価値はないのです。誰もがゴッホと同じ絵が書ければ、ゴッホの絵が何十億円で売れるはずがないし、買う人もいないでしょう。ある人は計算に長けている。ある人はコンピュウターのソフトをつくることができる。田舎のおばちゃんに、コンピューターのソフトをつくりなさいといったら、笑われるでしょう。
 「基本的人権」とは何でしょうか。人間として地球上に生まれた人は、誰もが公平に与えられる権利だといわれています。その中に「職業選択の自由」があります。誰も自由に、自分の好きな職業を選ぶことができるという権利ですが、日本中の労働者のなかで、本当に自分が好きな仕事、いわゆる天職についていると思っていり人は、何%いるでしょうか。大半の人が、成り行きによって、しかたがなく、今の仕事をしているというでしょう。
日本には完全失業率が5%くらいはいつもあります。ゼロ%になることはありません。自分がしたい仕事につけない人が、400万人も500万人もいるのです。これでも職業選択の自由があるといえるのでしょうか。
結婚する権利があるといいます。いくら権利があると叫んでも、相手がいなければ、結婚はできないのです。
人は誰でも「生きる権利」があるといいます。いくら生きる権利があるといっても、心臓が止まれば、絶対に生きられないのです。
「人権」というのは、自分は一番偉いという思想です。かつて演歌歌手の三波晴男が「お客様は神様です」といつもいっていました。自分というのは神様です。世界で一番えらいのです。だから自分が何をしてもいい、誰も文句をいうなという思想です。この思想が、小中学校の生徒に蔓延して、まともな授業ができない状況にあるといわれています。人権思想を吹き込んだ結果、こういう状態になっているのです。自分は一番偉い人間だから、自分は何をしてもいい、自分がしたいことをして、文句あるか。これが現在の若者の、考え方です。
だいたい権利というのは、義務、責任を履行して、初めていえるのです。私の家のすぐ前に、兵庫県で由緒ある、「広野ゴルフクラブ」があります。このゴルフ場は会員以外はプレーができません。基本的人権があるから、プレーをさせてくれといったら、笑われるでしょう。もしこのゴルフ場で、長くプレーをしたいのなら、大金を払って会員権を買わなければならないのです。
こんなことは常識です。電車に乗りたければ、切符を買わなければならない。映画やコンサートに行きたければ、チケットを買わなければならないのです。これは当たり前のことです。
基本的人権という途方もない権利に対して、人々はいったいいくらのお金を払っているのでしょうか。お金ではないとすれば、それに見合う義務、責任を履行しているのでしょうか。履行していないとすれば、それはインチキです。「真っ赤な偽物」です。
「真っ赤な偽物」である証拠に、人間は皆死んでいくのです。もし本物の「基本的人権」であるなら、死なないはずです。死なないのが本当の人権です。
今、現在、世界中の人間が信じている、「自由」、「平等」、「基本的人権」思想は、全部偽物です。この間違いに、今から2500年前に、東洋人で始めて、釈尊が気がつきました。「五蘊皆空」「色即是空」がそれです。
「五蘊皆空」とは、人間考えていることは、皆間違っているというのです。なぜなら、「不生不滅、不垢不浄、不増不減、無智亦無得」人間が生まれたということもないし、死んでいくこともない。汚いものもないし、きれいなものもない。儲かったということもないし、損をしたこともない。一生懸命に勉強して、知識を得たということもない、といっているのです。だから、人間の考えは、全部嘘だと喝破しているのです。
もっとすごいのは、「色即是空」といったことです。色というのは、目に見える物質的現象です。例えば、私の目の前に、机、椅子、壁、カーテン、テレビ、電話があります。戸外に出れば、家、道路、車が見えますし、遠方には山が見えます。釈尊は、これが全部空だ、つまり実存していないといったのです。色即是空の中には、もっと広く、地球内のあらゆる物質も含まれますし、地球それ自体が空なのです。地球どころか、太陽系宇宙、銀河系宇宙、大宇宙全体が空なのです。一切空というのは、宇宙全体の実態を喝破した、恐るべき思想です。
釈尊の思想の正当性を、証明したのが、広島、長崎に投下された、原子爆弾です。原子爆弾は、アインシュタインが発見した、E=MC自乗の理論に従って製造され、その理論どうりに爆発したのです。つまり物質はエネルギーの塊であるであることが、証明されたのです。もしこの思想が嘘なら、広島で20万人の人が一瞬で死んだことが、嘘になるのです。
現在、中学校で教えていることですが、原子核の周りを電子が回っているから、物質的状態が存在しています。物質があるのではなくて、電子の運動が、物質のようにみえるのです。もし電子の運動が停止すれば、物質は一瞬にして消滅してしまうのです。
実は地球上のあらゆる現象は、すべて、電気現象です。物質も、色も、生命現象も、味も、臭いも、全部電気の働きです。もし電気がなくなれば、地球そのものが、消滅してしまうのです。
釈尊は、「無眼界乃至無意識界」と喝破しました。人間が見ている世界も、意識している世界も実在していない。嘘だといったのです。
したがって、ユダヤ人が発想した、「自由」「平等」「基本的人権」思想は、全部偽物になるのです。嘘です。ユダヤ人は、フランス革命を機に、自我を確立し、自我の発展、自我の完成を目指してきました。現在は、自我が世界中を、横行闊歩していますが、これが、世界中のあらゆるトラブルを引き起こしています。放っておいたら、世界が滅亡するところまで、突き進んでいくでしょう。ユダヤ人の間違いを指摘できるのは、般若心経が理解できる日本人だけです。日本人が真剣にいうことなら、ユダヤ人が耳を傾けるでしょう。日本人以外の人のいうことには、ばか者といわれるだけでしょう。
まず我々は、「真っ赤な偽物」であることに、気がついて、本当のものを見つけなければいけないのです。これができるのは、日本人だけです。この意味で、日本人の役割は、とても重大です。
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